そーいちブログ

福岡県在住の「旅」を愛する大学生

旅で人生は変えられない①

これは平凡な人生を歩んでいた「僕」がアメリカ横断に挑んだ物語である。

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(序章) 

僕は探していた。自分が輝ける「場所」を。

 

 

僕は探していた。自分が変わる「きっかけ」を。

 

 

僕は探していた。本当の「自分」を。

 

(第1章)「コンプレックス」そして「自己嫌悪」との葛藤

僕は幼少期から高校まで野球に明け暮れていた。

休日も野球に時間を費やし、家族旅行にすら行ったこともほとんどない。

青年期までをこんな「狭い世界」で過ごしていたことが、後に「旅」というものに熱中する要因となった。

 

・順調なはずの人生

小学校、中学校。僕は必ずチームの中心にいた。

周りの選手よりもパワーがあり、そこそこ足も速かった。何より、チャンスの場面にめっぽう強かった。

僕は中学3年生になり、進学先の高校を選ぶことになった。僕が進学先に選んだのは、地元で「最も甲子園に近い」と当時言われていた高校だ。

総数70名を超える部員。2軍ではあるが入学早々、僕はスタメンとしてチャンスを多く与えられた。

「将来はチームの中心になる!」

僕の未来は明るいはずだった。 

 

・心身の「ズレ」

「腕に力が....入らねぇ。」

異変を感じた僕はすぐさま近くの病院へ。医者からは次の日にMRI検査を受けるようにと告げられた。

検査の結果、末梢神経の病気だと分かった。

それからはグラウンドの隅でリハビリに励む日々。僕の病気は常に痛みが伴うわけではない。だから自分が怪我をしている感覚はなかった。でも、負荷のかかるトレーニングは禁止。もちろん試合に出ることもできない。

「気持ちはあるのに、身体は動かない」

僕の気持ちは焦っていた。

症状が改善し僕はまた練習を始めた。だが、またすぐに怪我をした。今度は腰骨の骨折だ。

たった2年半の高校野球において数ヶ月のブランクは大きい。

「俺はまだやれるのに。」

身体が気持ちについていかない。僕は次第に自己嫌悪に陥った。

 

高校3年生の夏。甲子園に行ける最後のチャンスだ。

 その時、僕はグラウンドにはいなかった。ベンチはおろか、グラウンドの外で試合を見つめていた。死ぬほど悔しかった。

僕の高校はシード校として有力視されていたが、結果はまさかの一回戦敗退。泣き崩れる同期たちを横目に

「よっしゃ!」「終わった」

僕のどこかにはそんな気持ちがあった。

「神様なんていない」「努力したって夢は叶わない」

これが幼少期から熱中してきた野球から最後に学んだことである。なんて悲しいことなんだ。

僕は自分から他人に高校時代のことはほとんど語らない。高校時代の自分にどこか「コンプレックス」というものを感じていたからだ。

 

・毎日を「消化」するだけの日々

それから僕は地元である福岡の私立大学へと進学した。

そこそこ受験勉強に苦労したが、特に優秀でもなく、悪いわけでもない「中間」ぐらいの学生が多く集まるような大学である。偏差値もちょうど「50」くらい。

 

「4年後に就職してしまったら、社会の歯車になる」

 

そう思って僕はなんとかして大学生活を楽しもうとしていた。

俗に言う「新歓」というものに参加して酒を覚えた。バイトのない日はサークルに参加し飲み会に行っていた。飲み会はとても楽しかった。先輩に酒をおごってもらい、記憶が無くなるまで飲む。次の日は二日酔いで学校をさぼる。やがて自分には後輩ができて、彼らにおごるためにバイトで貯めたお金を消費する。

明らかに他人の目から見て人間として「退化」していってることは自分でも分かっていた。でもそれが大学生として「当たり前」であると自分の中で落とし込んでいた。

 

だが、大学生活の1年目が終わり、自分を振り返ってみた。両手には何も残ってはいなかった。

「このままではまずい。」

僕の中で「焦り」という気持ちが芽生え始めた。

でも何をすればいいのかわからない。「ボクシング」「楽器」新しいことを始めてみるも続かない。僕は完全に「迷走」していた。

 

僕はひたすら探していた。

過去の「コンプレックス」を払拭できるような何かを。

 

カンボジアとの出会い

カンボジア?」

絶賛迷走中だった僕は知人からカンボジアで学校建設を行っているNPO法人の「スタディーツアー」を紹介してもらった。

「地理」が得意科目だった僕はもちろん「カンボジア」という国の存在は知っていた。だが、カンボジアについてイメージはなにも無かった。唯一あるとすれば日テレ番組の「行列ができる法律相談所」がそこで学校を建てたということぐらい。

 

「行きます!」

なぜか僕は即答した。

カンボジアに行ったことがある人なんて当時は僕の周りにいなかった。それに「カンボジア」というパワーワード

「人生変えるチャンスが来た!」

そう確信した僕はすぐに団体に参加費を振り込んだ。

 

・僕はまだ「初心者」だった

 参加費を払えば次は「航空券」だ。

「スカイスキャナー」というアプリをダウンロードして航空券を探した。LCCという会社を利用すれば3万円で航空券が買えることが驚きだった。

今では当たり前のように利用している (もはやLCCしか乗ってない) 僕にもそんな時期があったのだ。

だが、1つだけ障害があった。それは「海外で乗り継ぎ」ということだ。

高校の修学旅行でしか海外に行ったことがなかった僕にとって「海外の空港」はとても怖かった。

しょうがなく「ANA」の航空券を2倍ほどの値段で買った。成田で乗り継ぎという「安全」を高い値段で買ったわけだが、不安な気持ちが完全に消えることはなかった。

 

大学2年生の夏。出発の日を迎えた。

相変わらず僕は不安だった。今でこそ「バックパッカー」「ミニマリスト」を名乗っているが、当時はパンパンに荷物が入った大きめのスーツケースを引きずり、リュックサックもチャックがきちんと閉まらないくらいに荷物を詰め込んでいた。

 

福岡空港の「ANA」の国内線カウンターでチェックインをする。「スルーバゲージ」というものを知らなかった僕は、成田空港で荷物をピックアップしなくていいというスタッフさんの言葉を信用しきれなかった。

(僕)「本当に成田で荷物取らなくていいんですか?ちゃんとカンボジアまで行くんですか?」

(スタッフ)「はい。だから心配なさらなくて大丈夫です (汗) 」

完全に困惑していた。本当に申し訳ないと今でも思っている。

 

不安を抱えたまま成田空港に到着。

約3年ぶりに「出国」のスタンプがパスポートに押される。

次に手持ちの3万円を「米ドル」に両替。初めて米ドルを手に持つ。米ドルを数えていると、お札に描かれている「アメリカ建国の父 ジョージ・ワシントン」が僕に微笑みかけているかのような気がした。

 

「ついに、カンボジアに行くんだ!」

不安な気持ちは相変わらずだが、同時にワクワクしている自分もいた。

搭乗のアナウンスが出発ロビーに流れる。

僕は飛行機に乗り込んだ。

(続く)