そーいちブログ

福岡県在住の「旅」を愛する大学生

旅で人生は変えられない⑪(アメリカ編)

前回のあらすじ

 僕はロサンゼルスにやって来た。

僕を暖かくお家に迎え入れてくれたホスト。

そして、初日から僕はアメリカで奇跡を起こした。

僕の長い旅は順調なスタートを切ったのであった。

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(第11章) グランドキャニオン

僕はロサンゼルス・ダウンタウンのバス停にいた。次はグランドキャニオンツアーの拠点となるラスベガスへ移動だ。

バスを待っているが時間になっても来ない。日本では定刻にバスが発車することは当たり前だが、アメリカはまず時間通りにバスが来ることの方が珍しい。

行き先は違うが、同じくバスが遅れているというアメリカ人の兄ちゃん2人組と仲良くなった。アメリカ横断していることを伝え、先の目的地の情報収集をすることができた。

予定時刻から1時間後。バスは到着した。

ロサンゼルスからラスベガスまでは5時間。それまではひたすら殺風景の砂漠道を走る。

砂漠を走っていると、所々に小さな町が現れる。これがいかにもアメリカらしい。

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砂漠にある小さな町

 ・眠らない街

ラスベガスはいかにも砂漠の中に人工的に造られたような街だった。

8月のラスベガスは連日、気温が40度を超える。この日も茹だるような暑さだった。

ラスベガスは観光客のための街だ。街は常に清掃員が掃除をしており、ごみが路上に全く落ちていない。ホームレスもいない。全身タトゥーの兄ちゃん達がたむろしているようなストリートもない。

物価も観光客プライス。普通にロサンゼルスの2倍はする。マクドナルドでも1ドルのハンバーガーが2ドルで売られている。レストランなども例外なく高いため、僕はラスベガスでは毎食マクドナルドに行っていた。体に悪い。

しかし、ラスベガスはホテルが安い。僕は高層ホテルの12階に宿泊したが、1泊20ドル(2,200円)だった。それにプラスで20ドルのリゾートフィーというラスベガス独自の税金を払わなければならないが、それでも十分にクオリティが高かった。

ラスベガスはどのホテルにもカジノが併設されており、観光客たちはそこで多額のお金を落としていく。ラスベガスのホテルの宿泊費が安いのは、たくさんの人に宿泊してもらい、カジノでお金を落としてもらうという狙いがあるのだ。

そもそもカジノをするつもりがない貧乏バックパッカーにとってはとてもありがたい。

 

余談だが、ラスベガスではストリートを歩いていると、数人のSPを連れた中東の石油王みたいな人ともすれ違った。

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ラスベガスのカジノ&リゾートホテル

・地球20億年の歴史

ラスベガスまで来た目的は、グランドキャニオンツアーに参加するためだ。

僕が参加したのは、95ドル(9,900円)のラスベガス発では最安値のツアーだ。ガイドはもちろん英語。

何よりもつらかったのは、1人でツアーに参加しているのは僕だけだった。他の参加者は恋人や家族と参加していた。もちろん、日本人の参加者は僕だけ。

前の座席に座っていたメキシコ人の夫婦と仲良くなってお菓子などを貰ったりもしたが、基本的には一人行動。普段から一人旅をしていて、特に寂しいという感情を抱くことはないが、こういったツアーに参加すると急に一人でいることへの寂しさを感じてしまう。

将来、好きな人とまたグランドキャニオンに戻ってくる。それが夢だ。

しかしながら、グランドキャニオンの絶景は感動ものだ。あれは行った人にしか分からない。何時間いてもあの絶景に飽きることはなかった。

ツアーに参加して良かったこともある。それは、1人であったからこそガイドさんと仲良くなることができた。

ガイドさんは黒人でアフロ頭のおっちゃんだった。いかにも70年代のレゲエ歌手にいそうな風貌でとても気さくな人だった。バス移動中もジョークで参加者たちを楽しませていた。

1人で参加している僕がちゃんと楽しめているか気にかけてくれていた。なんて良い人なんだ。

ツアーはとても満足いくものだった。ぜひ、また参加したい。

ツアーが終了し、僕がバスを降りようとした時、

「See you again! Good luck!」

とガイドさんが声をかけてくれた。

ツアー中は一緒に昼食も食べたし、夕食も食べた。おそらく今回の参加者の中で僕ほどガイドさんと一緒に行動を共にした人はいないだろう。

名前は忘れてしまったが、あのアフロのおっちゃんとまた会える日を楽しみにしている。

 

僕のアメリカの旅は本当に人に恵まれていた。

アメリカは銃社会ということもあり、アメリカ人は他の国の人よりもどことなく警戒心が強いように感じたが、打ち解けてしまえばすぐに友達になれた。

まだまだ続くアメリカの旅。次はどんな出会いが待っているのだろうか。

⑫に続く

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グランドキャニオン・サウスリム

旅で人生は変えられない⑩(アメリカ編)

前回のあらすじ

 「人生を変えるきっかけを探しに行く」

僕はそんな思いで、アメリカを旅することを決めた。

昔から憧れの地であったが、人生初のアメリカ。これから僕にはどんな出会いが待ち受けているのだろうか。

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(第10章) L.A .

太平洋を越え、アメリカ大陸が見えてきた。

時刻は現地時間の夕方。天気は快晴。窓際の座席からはしっかりと景色が見えた。相変わらずの晴れ男ぶりを発揮した。

飛行機は定刻通りの現地時間の午後7時に着陸した。

だが、まだ先は長い。

アメリカの入国審査は厳しいと評判だ。そして、ロサンゼルス空港には入国審査を受ける人で長蛇の列ができていた。

まずは、ESTA(e-VISA)の発行をするための列に並ぶ。ここは30分でいけた。

次は入国審査の列に並ぶ。ここでは2時間以上並んだ。トイレに行こうものなら、また最初から並ばねばならない。必死にトイレを我慢しながらも、懸命に順番を待った。

そして、いよいよ順番が回ってくる。

日本人ならば信頼度が高く、すぐに通過できると思っていた。

しかし、滞在先の住所、入国の目的、滞在期間、帰りの航空券の有無など詳しく質問された。今まで25ヶ国を訪れているが、アメリカの入国審査は桁違いに厳しいものであった。

金髪のガキが1人で1ヶ月以上も滞在すると言ってるだから、怪しまれるのもしょうがないか。

空港を出た時には、時刻は午後11時を回っていた。

これから僕はアナハイム近郊の小さな町に住むホストのもとに行く約束だ。

しかし、もうアナハイム行きのバスは出ないとのこと。アナハイムに行くにはもうUberしか手段がないと言われた。

Uberアナハイムまでは50ドル(5,500円)。バスの倍以上かかるがしょうがない。

車を手配して乗り込む。車の運転手は僕より5歳年上の兄ちゃんだった。救命士になるために、サンディエゴの大学で勉強しているそうだ。

彼はとてもフレンドリーですぐに仲良くなった。お互いに音楽とMLBが好きという趣味が一致して、会話が弾んだ。

1時間近く乗車していたが、あっという間にホストの家に到着した。到着したという連絡を入れると家から出てきた。

彼の名はクリス。ベトナムにルーツを持つ、アジア系アメリカ人だ。見た目は完全にベトナム人だが、アメリカ生まれアメリカ育ちだ。英語の発音もきれいだ。

彼のホスピタリティは素晴らしかった。彼は毎日、早朝5時には仕事に向かうために家を出るそうだ。僕が彼の家に到着したのは深夜過ぎ。なんと、彼は寝ずに僕の到着を待っていてくれたのだ。それに、長旅で僕が小腹をすかせているだろうと、うどんを作ってくれていた。トマトの酸味が効いたスープにパクチーが入ってアジアンテイストになった彼の手作りうどんはとても美味だった。さらに、洋服も洗濯してくれた。

どこまでクリスは良いやつなんだ。

話を聞いてみると、

「俺はアメリカ人だが、はるばる遠くから来てくれたYouには最高の思い出を作って帰ってほしい。アジアにルーツを持つ者同士だから、俺とYouは家族さ!」

ほんとに泣けてくる。遠い海の向こうにはこんな良い人がいたんだ。

僕のアメリカ生活は最高のスタートを切った。

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クリスの手作りうどん

・光と影

翌日。

クリスは仕事のため、1人で観光に出かけた。

「車社会」のアメリカにおいて、ロサンゼルスも交通の便が悪い。地下鉄や電車も一部の地域しか走っておらず、基本的に観光客の移動は、レンタカー、Uber、市バスに限られる。バスは路線も本数も少ない。車で30分で行けるところに、2時間かけて行かなければならないケースも多い。

サンタモニカにハリウッド。テレビで見た光景の連続だ。僕はロサンゼルスを楽しんでいた。

しかし、気になる点もあった。「ダウンタウンエリア」だ。ここでは、殺人や強盗、ギャングと警察の抗争が日常茶飯事だ。人が道端で死んでいても誰も気に留めないという話も聞いたことがある。

半分冗談だと思っていたが、実際に行ってみて確信した。歩道にずらっと並んだテント。奇声を上げている薬物中毒者。全身にタトゥーの入ったお兄さん達の集団。

ヨーロッパでもスラムと呼ばれる地域に行ったが、それとは比べものにならない雰囲気。殺気を感じた。

日本という平和ボケしてしまった国に住んでいる僕でもここはヤバいとすぐに感じた。

格差社会アメリカの「闇」の部分は深い。日本人が容易に足を踏み入れてはならない。

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ダウンタウンに広がるテント村

アナハイムの奇跡

クリスも仕事から戻り、夕方からは一緒に行動した。

MLB好きでもある僕は、日本人として大谷選手を絶対に観たかった。

しかし、僕がロサンゼルスにいる間、大谷選手が所属するエンゼルスは長期の遠征に出ており、残念ながら本拠地での試合はなかった。

せめてもの思い出にと、スタジアムだけは行きたいと思い、クリスに車で連れて行ってもらった。

スタジアムには灯りがついていた。なにかイベントをやっているのだろうか。とりあえず、行ってみることにした。

スタジアムでは音楽ライブが行われていた。しかも、入場料は無料だそうだ。

スタジアムの外で記念撮影ができればいいと思っていたが、中に無料で入れるのだからラッキーだ。

そして、奇跡は続いた。

グラウンドが解放され、自由に入っていいとのことだ。

こうなれば、僕は大興奮だ。まさかグラウンドの芝を踏めることになるとは。僕は大谷選手と同じ目線に立っていた。

大谷選手に会うことは叶わなかったが、大谷選手になりきることはできた。

試合がないからといってスタジアムに行くことを諦めていたら、こんな経験はできなかった。

選手目線で見るスタジアムはとても迫力があった。こんな環境で毎日最高のパフォーマンスをするメジャーリーガーの凄さが分かった。

ロサンゼルスの日々は僕にとって素晴らしいものだった。

⑪に続く

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エンゼル・スタジアムにて

旅で人生は変えられない⑨

前回のあらすじ

 旅に出るならば、事前に十分な下調べをして行くべきだ。下調べをしておくことで何気ない風景も違って見える。

イタリアで僕は学んだ。そしてローマ滞在で僕のヨーロッパ旅は終わりを迎えた。

旅は自分自身のなかでは大成功だった。自信をつけることができた。

そしてまた、僕は日常へと戻ったのであった。

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(第9章) アメリカン・ドリーム 

僕は退屈だった。

ヨーロッパで確かな自信をつけてきたはずなのに。

なのに、僕はなぜか退化していた。

大学にも行かなくなった。すべてが面倒だった。家にいてYouTubeを見て、たまにアルバイトに行く。

こうなってしまったのには色々な事情があるが、僕にはもう数ヶ月前の勢いがなかった。覇気がなかった。

すべてがどうでもよくなっていた。

 

アメリカ横断

過ぎていくだけの日々のなかで僕はとある1つの動画に出会った。某YouTuber「アメリカ横断」の動画だ。なぜか僕はこれをずっとぶっ通しで見ていた。

そして僕は思った。

「旅に出たい」

なぜかその日からアメリカ横断のことばかりを考えていた。

「俺、久しぶりにワクワクしてる!」

迷いはなかった。アメリカ横断をしたいと思った次の日には、ロサンゼルス行きの航空券を買ってしまった。

アメリカに行けばきっと何かある」

子どもじみた考えではあるが、アメリカで何か人生が変わるような運命の出会いが待っている。根拠のない自信があった。

僕はただ探していただけさ、「きっかけ」を。

 

 

アメリカに滞在するのは1か月と決めた。しかし、物価の高いアメリカでは1か月滞在するのにはかなりのお金がかかる。

でも僕には旅の知識があった。

航空券から移動費まで全ての費用を30万円以内で抑える採算がついた。

 

旅のテーマは「現地の人との触れ合い」

世界には無料で旅人を自宅に泊めてくれるコミュニティがある。僕はそこでメールを送りまくった。日本を出発する前にはいくつか受け入れ先が見つかっていた。

あとはコミュニケーションを図るために、1か月で必死に英語を勉強した。もともと英語は得意であったが、出発前にはビジネスレベルまでに上達していたと思う。

 

いよいよ出発だ。

人生を変えるつもりだった僕はアドレナリン全開でワクワクしていた。

荷物は大きめのバックパックと小さめのショルダーバッグ。いつものスタイルだ。

 

ロサンゼルスへの道は長い。最安値の航空券を買っていたため、3回も乗り継ぎがある。

まずは韓国。韓国には丸一日滞在した。

お次は中国・厦門。ここからはいよいよインターネットが使えなくなる。たった数時間の待機だったから苦ではなかった。

お次はまたしても中国・青島。ここで中国の出国手続きをした。

次に飛行機に乗れば、もうアメリカだ。中国では現地時間が深夜を過ぎていたが、まったく眠くなんてなかった。

ロサンゼルス行きの搭乗アナウンスが流れる。飛行機はもちろん大型機だ。

 

定刻通りに飛行機は離陸した。

アメリカン・ドリームを追いかけた僕の旅がいよいよスタートした。

⑩に続く

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中国・厦門空港にて

旅で人生は変えられない⑧(欧州編)

前回のあらすじ

 スペイン・バルセロナにやって来た僕。経済が不安定ながらも、酒場に集まり楽しく談笑しているスペインの人々を見て「人間にとって大事なものは何か?」を考えるきっかけとなった。

バルセロナでの楽しい日々を過ごしていた僕は、自分が旅に慣れ、新しい発見や出会いに感動しなくなってきていることに危機感を抱いていた。

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(第8章)  ロマーノ

バルセロナからローマまでは飛行機で2時間。地中海上空をずっと飛行していた。

きれいな海と島々。空からの眺めは最高だった。

 

ローマ・フィウミチーノ空港から市内まではかなり離れている。バスで1時間かかる。

ローマの中央駅であるテルミニ駅にバスは到着した。僕の宿はバチカン市国のすぐ近くだ。ここから地下鉄で移動することにした。

 

電車に乗り込んだ。だが、なかなか発車しない。始発駅だからだろうか。しかし、電車は一向に発車しない。

車内アナウンスが入る。車内に騒然とした空気が流れ、乗客みんな降り始めた。

何が起こったのだろうか。イタリア語が分からない僕はまったく分からなかった。

電車から降りると僕はすぐに状況を把握した。確か僕が乗っていた隣の車両だ。

大柄の男性が車内で倒れていた。乗り合わせた医者と思わしき人が治療にあたっている。改札の方から救急隊がやって来た。

 

電車は数時間ストップするそうだ。乗客全員がバス停に押し寄せる。

もちろんバチカン行きのバスは超満員だ。体の大きい欧米人に押し潰されながらも、なんとかバチカンに到着した。

・世界一小さな国

カトリックの総本山であるバチカン。あの有名なローマ教皇が住んでいる場所だ。

バチカンはローマの中にあるが、立派な1つの国家だ。しかし、教会や美術館に入る時以外はセキュリティチェックもないため、国境を超えるという意識は特に感じない。

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バチカン市国

・「ローマは一日にして成らず」

ローマは今回の旅で一番訪れたかった場所だ。

コロッセオなどの古代ローマ帝国時代の遺産、スペイン階段などの「ローマの休日」に登場する場所。教科書や映画で見たままの風景があふれる街並みは圧巻だ。

 

ローマ滞在の感想を述べるとするならば、「楽しかった」。それに尽きる。

バルセロナで感じていた不安は的中した。特にローマは入念に下調べをしていたため、すべてが上手くいった。

だが、その一方で新たな気づきもあった。下調べをするのとしないのでは大きな差が生まれるということだ。

「なぜローマ帝国は繁栄し、やがて衰退の道を歩んだのか」

その歴史を少しだけでも予習しておくだけで感じ取れるものが違う。少しも下調べをしないでコロッセオに行ってみたとしよう。

「教科書で見たことある!」

それだけで終わってしまう。感動なんて一瞬だ。あとは写真をとって終わる。

残念なことに、多くの観光客は写真撮影が目的になっている。ローマの遺跡の価値に気づくことなく帰っていく。

ローマ帝国の成り立ち、歴史を少しでも知っておけば、ローマ観光は楽しくなる。

下調べの大事さを改めてローマで知ることとなった。

私は一見、行き当たりばったりの旅をしているかのように見られているが、下調べは怠らないように心掛けている。

予定調和な旅をするようになってしまったからこそ、下調べで「深みのある旅」にするようになったのだ。

それをローマの街が気づかせてくれた。バルセロナで感じた不安は的中したが、ローマに来た意味はあった。あの時、スリルを求めて旅先をろくに情報もないような場所に変更していれば旅人として進歩することができなかったかもしれない。

 

本場のパスタにピザ、ジェラートを堪能し、ふらふらになるまでワインを飲んだ。イタリアではけっこうな贅沢をした。ローマの滞在は満足のいくものにできた。

 

僕は一旦プラハへ戻り、そこから日本へと帰国した。

 

今回の旅で、僕は人間として少しだけアップデートされたような気がした。

「死ぬまでに行けたらいいな」

数年前まではそう思っていたヨーロッパも、自分にとって近い存在となった。

「僕はもうどこにでも行ける」

僕はそんな確信を得ていた。

「世界が小さく見える」

僕という存在が大きくなったような気がしていた。

⑨に続く

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スペイン階段

旅で人生は変えられない⑦(欧州編)

前回のあらすじ

 ヨーロッパの小国であるベルギー、オランダを訪れた僕。ベルギーでは「難民問題」に直面し、「幸せ先進国」であるオランダでは現地の日本好きのおじさんとなぜか行動を共にするのであった。

次はスペイン・バルセロナへ向かうべく、オランダの空港で夜を明かしたのであった。

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 (第7章) 情熱の国

午前7時。アムステルダムスキポール空港を飛び立った。

早朝のフライトにも関わらず、機内はほぼ満席状態であった。

ちなみにヨーロッパはLCCが発達していて、アムステルダムバルセロナという国際線ではあるが値段は片道3,000円だった。

 

フライトは2時間。いつものように目を瞑っていればあっという間に到着した。

2月下旬ではあったが、気温も20度前後と長袖シャツ1枚で過ごせるほど暖かかった。

空港から市内までは、電車と地下鉄で移動しなければならない。

特にバルセロナの電車はスリが多いことで有名だ。だが、正直なところポケットには物を入れないなど基本的なところに注意さえ払っていれば大丈夫だ。

 

・ガウディの街

バルセロナの中心部、カタルーニャ広場に到着した。僕はさっそく洗礼を浴びた。

ピエロの仮装をした女の子が一緒に写真を撮らないかと交渉してきた。僕はそこまで乗り気ではなかったが、あまりにも押しが強かったため写真を撮ることにした。

 

撮影後はもちろん、チップの要求だ。僕はしょうがなく財布に入っていた5ユーロ(500円相当)を手渡した。

だが、もっとチップをよこせと要求してくる。ふざけるんじゃない。1、2ユーロが無かったからしょうがなく多めにあげたのにもっとよこせだと。次第にグルと思わしき女も介入してきた。

「言葉の通じないこいつらと口論してもしょうがない」

女たちにスペイン語でこれでもかと言わんばかりの罵声を受けながらその場を去った。

 

バルセロナの街を散策する。スペインは経済がとても不安定な国で、数年前は若者の失業率が50%もあった。2人に1人は失業する国。

しかしながら、ホームレスの数はそこまで多くはなかった。平日でも夕方には多くの人がバルに集まり、お酒を飲みながら楽しそうに談笑していた。

いつ自分が仕事を失う、収入が無くなってもおかしくない状況でもスペインの人々は楽しそうに生きていた。

結局、人間にとって大事なものはお金でも、安定した生活でもないのかもしれない。

 

バルセロナの街は、建築家ガウディの「作品群」が世界遺産に登録されており、ガウディ建築を巡っていくのが王道の観光プランだ。

グエル公園カサ・ミラなど有名どころはたくさんあるが、「サグラダファミリア」を知らない者はおそらくいないだろう。

2026年完成予定の未完でありながらガウディの「最高傑作」とも言われているサグラダファミリア。この迫力と美しさは自分の目でぜひ確かめてもらいたい。

現在建設中の「塔」にも上ることができる。これは事前予約が必須である。音声ガイドも日本語が選択できるため、サグラダファミリアに秘められたガウディの思い、彫刻1つ1つに込められたコンセプトを自分の耳で聞き、自分の目で確かめて来てほしい。

 

2日目。バルセロナ観光の朝は早い。

なぜなら、ガウディ建築の1つである「グエル公園」は朝6~8時までは無料で入場できるからだ。朝早くにも関わらず観光客がたくさんここに集まり、美しい建築物とともに日の出を眺めるのだ。

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グエル公園

僕にとってはバルセロナ観光が最も楽しかった。

美味しいパエリア、タパス、ビール、サングリアを堪能し、現地の人々とも触れ合えた。

「オラ!」

スペイン語であいさつをするとみんな返してくれた。スペイン人はフレンドリーな人が多かった。

 

その一方で僕は「非日常」という環境に慣れてきつつあると感じていた。もはや毎日が新しい出会い、発見の連続でそのことに感動すら覚えなくなってしまっていた。

少なくとも、出発前や東欧にいる時のような「どきどき」はもう完全に無くなっていた。バルセロナの街が悪いわけではない。むしろ大好きだ。また行きたい。

 

旅に慣れることは良いことだ。上手に旅ができるようになればその分、引き出しも増える。

だが、旅慣れしていない時に感じていたあの不安やどきどき感。もう感じることはおそらくできないだろう。

旅慣れしてしまった僕はもうすべてが上手くいく。予定調和の旅しかできなくなってしまった。

 

次は旅の最終目的地、イタリア・ローマだ。

もちろんローマは楽しみだ。ヨーロッパ旅で最も行きたかった場所だ。

しかし、このままでは「楽しかった」だけで終わってしまう気がして恐かった。

そんな不安に襲われながらも僕はバルセロナを飛び立った。

⑧に続く

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バルセロナ凱旋門

旅で人生は変えられない⑥(欧州編)

前回のあらすじ

ドイツ・ベルリンに到着した僕。そこでは、東西冷戦時代の「負の遺産」であるベルリンの壁を訪れ、歴史というものについて考えるきっかけとなった。

次にフランクフルトを訪れた僕は、麻薬、売春、ギャング、ホームレスとヨーロッパを牽引するドイツの「闇」の部分を目の当たりにしたのであった。

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(第6章) 華の小国

フランクフルトからバスで7時間。ベルギーの首都・ブリュッセルにやって来た。

この日は早起きだったせいか、目を瞑っていたらあっという間に到着していた。

バスはブリュッセル中央駅のターミナルに停車した。

 

駅の北口から僕は外に出た。そこには黒人の男たちが十数人、爆音で音楽を流しながらたむろしていた。僕はまた警戒を強める。誰とも目を合わせないように急ぎ足でその場を通り抜けた。

 

・欧州の中心

ベルギーは小国であるが、日本でもそこそこお馴染みな国だ。フランダースの犬、小便小僧、ワッフル、チョコレートなど有名どころがたくさんだ。

最近では、サッカーのワールドカップ・ロシア大会で日本が決勝トーナメントで対戦したことも記憶に新しい。

他にもベルギーはEU(ヨーロッパ連合) の本部があることから「欧州の中心」と言われている。

ブリュッセルでは日本人も多く見かけた。

 

しかしながら、気になることもたくさんあった。ホームレスの数が圧倒的に多い。もちろん、フランクフルトやベルリン、他のヨーロッパの都市にもホームレスはそれなりにいたが、ブリュッセルはその数が圧倒的に多いように感じた。

私がブリュッセルを訪れたのは週末だったが、午後7時前には街のお店はほとんど閉まっていた。営業しているのは、飲食店とスーパーマーケットぐらい。

さらに異様な光景は続いた。ホームレスたちの間にもテリトリーのようなものがあるのだろうか。お店が閉まると、それぞれが慣れた手つきで店の前にマットレスや毛布を敷き始め就寝の準備を始めていた。まず、日本ではほとんど見かけることはないであろう光景だ。

 

ベルギーは近年、「テロの温床」になってきていると言われている。最近では連続テロも起こるなど、特にブリュッセルの治安は悪くなってきている。不法移民も多いとされ、特にホームレスもアラブ系、アジア系の人たちが多い印象だった。

 

日本にいると、島国であるがゆえに移民などについて考える機会も少ない。しかし、お隣の韓国からポルトガルまでは陸で続いている。日本ももはや他人事ではない。

 

ブリュッセルに関しては、24時間も滞在していないため、深い部分まで知ることはできなかったと思う。

僕は次の目的地である、オランダのアムステルダムに向かうことにした。

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EU本部(ブリュッセル)

・オランダのおじさん

ブリュッセルからバスで3時間。長時間移動が当たり前になっていたせいか、すぐに着いたように感じた。

アムステルダム郊外で降ろされた。市内までは電車で移動だ。

ちなみに、ヨーロッパではどこの国でもローカル電車・バスのチケットをクレジットカードでも購入できる。キャッシュレスの部分では日本の数倍は先を進んでいる。

 

街の中心部に到着した。街はきれいで平和な雰囲気が漂っていた。ブリュッセルとは対照的だ。先進国でありながら、ホームレスも少ない。

オランダは国民の「幸福度」がかなり高い国としても有名だ。

 

アムステルダムの街はすぐに好きになったが、滞在時間は半日ほどしかない。

まずは、中央駅から電車で40分のところにある「ザーンセ・スカンス」に向かった。オランダと言えば「風車」が有名だが、今では数が少なく貴重だ。そのなかで、首都から簡単にアクセスできる「風車村」としてザーンセ・スカンスはとても有名だ。

 

ザーンセ・スカンスを楽しんだ後、アムステルダム中央駅に戻ってきた。

あたりはすでに日が落ちて暗くなっていた。街を散策しているとオランダ人のおじさんに話しかけられた。

話を聞くと、日本は3回訪れたことがあり、日本の文化が大好きだそうだ。ヨーロッパでは中国人とよく間違えられていた僕を一発で日本人だと見抜いたから、このおじさんはきっとただ者ではないだろう。少しボディータッチが多いのが気になったが。

 

おじさんにひと通り街を案内してもらい、晩飯までご馳走になった。短い時間であったが、おじさんとはたくさん話した。

「日本の文化」「日本の政治」おじさんはすごく物知りだった。こんな遠い海の向こうにも日本人よりも日本のことを知り尽くした外国人がいるのか。少しだけ衝撃を受けた。

僕の拙い英語もなんとかくみ取って理解してくれた。

 

僕は次の日にスペインのバルセロナへのフライトがあったため、空港に向かうことにした。中央駅までおじさんが見送りに来てくれた。

たった2時間ほどしか行動を共にしなかったが、なぜかこのおじさんのことはよく覚えている。

 

次の日は早朝にフライトがあったため、この日は空港泊をした。アムステルダム空港は快適だった。真冬だったこともあり、少し体が冷えたがベンチで横になって寝ることができた。

 

次の日の早朝。

スペインはバルセロナへ向かうべく、アムステルダムを飛び立った。

⑦へ続く

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ザーンセ・スカンス

旅で人生は変えられない⑤(欧州編)

前回のあらすじ

 人生初のヨーロッパに降り立った僕。高鳴る胸の鼓動は相変わらず抑えきれないままだった。

「東西冷戦時代」は東側諸国だったチェコ共和国プラハポーランドワルシャワを訪れた。観光地化が進んでいるプラハとビジネスの街として発展してきたワルシャワ。そこに住む人々の性質も大きく異なる。

ワルシャワでは「言語の壁」に直面し、詐欺師にお金を騙し取られてしまった僕は完全に気力を失っていた。しかし、帰国は2週間後。

ポーランドから逃げるかのように僕は、ドイツ・ベルリン行きの夜行バスに乗り込んだ。

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 (第5章) 分断

ドイツ国境付近。バスは急に停車した。

何が一体起きたのだろうか。僕は思わず目を覚ました。

 

しばらくすると、大きな銃を持ったドイツの警察官が車内に乗り込んできた。

乗客全員がパスポートを回収される。乗客の何人かがバスの車外に連れ出されていった。

「何が起きているんだ?」

 

10分後、警察官が戻ってきた。乗客全員にパスポートが返却される。あの時間は一体なんだったんだろうか。未だに謎である。

 

・ドイツ人

ベルリンの郊外にあるターミナルで降ろされた。ここから市内までは電車で移動しなければならない。

私はバスで隣に座っていたベトナム人の女性と仲良くなっていた。偶然にも彼女と目的地が同じだったため、一緒に向かうことにした。

ベルリンの電車の路線図は複雑で分かりづらい。自分たちがどの駅にいるのかも分からないし、何番の電車に乗ればいいのかも分からない。

現地の人に尋ねてみた。通勤ラッシュの時間帯で忙しそうだったが、親切丁寧に教えてくれた。英語も通じる。

ちなみにドイツは英語が公用語でない国のなかでは最も国民の英語能力が高いそうだ。

子どもから老人まで英語が話せる人がたくさんいる。

 

「ドイツ人の働き方は素晴らしい」「ドイツ人は残業をしない」「ドイツ人はみんな楽しそうに働く」

そんな話を聞いたことがある。

僕は朝、電車に乗るのが嫌いだ。これから職場に向かうサラリーマン、OLたちはみんな下を向いている。こっちまで気分が暗くなる。

「ドイツ人みたいな働き方をすればいいのに。」

僕はそんなことを思っていた。

だが、実際はどうだろうか。ドイツの朝の電車に乗ってみた。

ドイツ人だって電車のなかで下を向いている人は何人かいた。日本ほど重たいムードは車内に漂っていないが。少なくとも、歌ったり踊ったりしている人は一人もいない。ビジネスマン、学生らしき人たちのほとんどが疲れた目をしていた。

ヨーロッパ人だって皆がそれぞれ多少なりのストレスを抱えて生きているのだ。日本という社会が悪いんじゃない。大事なことは、

「自分はどう生きるか」

それに尽きるのではないだろうか。

 

・壁

目的地に到着し、ベトナム人の女性と別れた。散策スタートだ。

街中を歩いていて目につくものは、やはり「壁」だ。東西冷戦時代のベルリンは二つに分断されていた。その時の分断の象徴である「ベルリンの壁」は世界的にも有名だ。誰しも一度は教科書で見たことがあるだろう。今でも壁の一部はそのまま残されている。

 

壁は思っていたよりも高かった。そして二重構造になっており、当時はその間に警察犬や警官がいて逃走を図るものはその場で射殺された。

脱出に成功した者もいるなかで、命を落とした者もたくさんいた。それでも共産主義で貧しい生活を送っていた東ベルリンの人たちは、資本主義の西ベルリンへの逃走を試みた。

今でもこの「負の遺産」は当時のまま残されているため、ベルリンを訪れた際はぜひ足を運んでみてほしい。当時の人たちはどんな思いで壁を越えようとしていたのか、そこで感じ取ってもらいたい。

 

観光をするにもベルリンの街は充実している。 「ベルリン大聖堂」「ブランデンブルク門」などの定番スポットに加え、ショッピングも楽しめる。それに、ビールの美味しいレストランもたくさんある。

 

ベルリンでの2日間は充実していた。歴史を学び、大好きなビールをたくさん飲み、温泉にだって入れた。僕は完全に英気を養っていた。

僕は次の目的地であるフランクフルトに向かった。

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ベルリンの壁

・街の中心にあるスラム街

ベルリンからバスで6時間。フランクフルト中央駅のバス停で僕は降りた。

時刻は午前5時。まだ外は暗く、気温も低かった。僕は駅の構内に入った。

 

僕はすぐに異変を感じた。たくさんの浮浪者が駅のホームで寝ていた。ふらふらと歩きながら奇声を発している人もいた。

手を差し出して僕の背後をつけてくる人もいた。金が欲しいのか。ただ、ろれつが回っていなくて何を言っているのかさっぱり分からない。

「ここは危険だ。」

そう感じた僕は、スターバックスで外が明るくなるのを待った。

 

外が明るくなり駅の外に出た。駅の外にもホームレスや薬物中毒者と思しき人たちがたくさんいた。

 

フランクフルト中央駅周辺は治安が悪いことで有名だ。駅の周辺には売春宿が建ち並び、そこに多くのホームレスや薬物中毒者、マフィアが住み着いており、「スラム街」が形成されている。

フランクフルトは街の中心部にスラム街があるのだ。歩道には便器が設置されているが仕切りはない。住人はそこで用を足すため悪臭が漂っていた。白昼堂々と男たちが麻薬と思わしきものを手渡ししていた。このエリアは警察もなかなか手が出せずにいるそうだ。

 

そして僕は重大な問題に気付いた。なんと、僕の宿はこのスラム街にあったのだ。どうりで安いはずだ。

隣は売春宿と思わしき怪しい建物だった。インターホンを鳴らして、ホテルのフロントからカギを開けてもらう。セキュリティも厳重だ。

 

フランクフルトは一通り観光し、暗くなる前に宿に戻った。深夜過ぎに外を見ると、麻薬中毒者たちがゾンビのように徘徊していた。

 

フランクフルトの滞在は1日だけ。

次の日にベルギー・ブリュッセルに向かうべく、朝早くに宿を出た。外は多くの浮浪者たちが徘徊していた。

最大限の注意を払い、急ぎ足でスラム街を抜けた。

フランクフルト中央駅にもたくさん浮浪者がいた。

バスが停車していたので僕は足早に乗り込んだのであった。

⑥に続く

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フランクフルト中央駅